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  • 【公演批評】《DANCE BOX International works》ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』(岡元ひかる)

【公演批評】《DANCE BOX International works》ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』(岡元ひかる) | BLOG | NPO DANCE BOX

2018.10.5

【公演批評】《DANCE BOX International works》ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』(岡元ひかる)

REVIEW

 

記憶を運ぶダンス —ダレル・ジョーンズの『CLUTCH』—

 

  •  ダレル・ジョーンズは、今やストリートダンスの一つとして定着した「ヴォーギング」の新たな形を探る振付家である。このヴォーギングを産んだのはアメリカのアフリカ系、ラテン系のトランスジェンダーやゲイの男たちだ。クラブに集い、派手な異装によるパフォーマンスを競い合う、すなわちドラァグ・クイーンと呼ばれる人々だ。ドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない。』を筆者が観た時、そんな彼らが自分たちの形成したコミュニティを「ハウス」と呼び、心の拠り所にしていたことが印象に残った。そこには日常にある差別や抑圧が及ばない。だが同時に、そのコミュニティが外の社会にある抑圧システムそのものを変える力を持つわけではない虚しさを感じたことも覚えている。
  •  ストリートダンスの身体的素地を生かした振付家といえば、国内であれば川村美紀子やKENTARO!!など、少なくない。さらに言えば、古典芸能や民族舞踊を土台とした振付、エアロビクスとバレエの融合など、新奇な表現を作り出すべく既存のダンスに着目することは、手法としては王道であるとも言えよう。他方でジョーンズは、ヴォーギングという既存のダンスに潜在する新しい表現の可能性を発掘することに主眼を置いてきた。ここに、とりわけストリートダンスに関わる作家としての、彼の特徴がある。 
  •  さて8月3日(金)と8月4日(土)、彼の『CLUTCH』がダンスボックスで発表され、筆者は土曜の公演に足を運んだ。そこでまず印象深かったのは、ヴォーギングにおける動きの特質が抽出されて活用されるばかりではなく、このダンスのルーツや歴史的背景が振付のモチーフとして活用されていたことだ。 
  •  例えばファッション誌「ヴォーグ」がその名の由来となったヴォーギングでは、ダンサーが雑誌モデルさながらポーズを次々と展開し、幾何学的な身体フォルムが連続的に繰り出されてゆく。とりわけ腕や手で作るフォルムの素早い組み替えからは、ある種の手捌ききのような技巧的な印象を受ける。そして上演中にはこの「手捌き」と、喧嘩を想起させる身振りとのアナロジーが呈示された。
  •  もともとドラァグ・クイーンたちの間には、相手を侮辱する「シェイド」や、相手の欠点や格好の悪さを笑い飛ばす気の利いた冗談「リーディング」という、いわば喧嘩の文化がある。ヴォーギングもこの延長にあり、他種のストリートダンスと同様、嫌いな相手と口ではなくダンスで戦うのである。作品中盤、ジョーンズに加えて、もう二人のダンサー(J・スン・ハワード、デーモン・グリーン)が向き合って立つ。そして先述の「手捌き」と、少し頼りないチョップを相手にフニャっと見舞う身振りの、どちらにも属さないがそれらの間にあるような動きをみせた。ヴォーギングの動きがもつ鋭角的で硬質な印象が、まるでアニメのキャラクターがポカスカと喧嘩するようなのどかでコミカルな印象と合わさり、重層的なイメージを与えたシーンであった。

    ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』公演より(photo : junpei iwamoto)

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  •  喧嘩というルーツを彷彿とさせるシーンとしては、作品前半も面白い。開演してからダンサーたちはまず暫くウォーミング・アップの様子をみせ、その後会場内の空気を作品本編へと引き込むように、フロアを歩き回り始める。直線や曲線を描くというラフなルールは伺えるものの、あくまでシンプルな振付が続くために、彼らが互いに一定の距離を保とうとする注意力が際立つ。また、腰から脚を持ち上げて一歩を出す歩き方は、モデルの歩き方より少し官能的で、どこか挑発的だ。これらの雰囲気が同時に居合わせることで、まるでダンサーたちが火花を静かに散らす、歩行のゲームを見守るような状況性が立ち上がっていた。因みにこの間、会場はDJが流すクラブミュージックに包まれている。そのビートが煽る高揚感と、ダンサーたちがその場に漲らせる緊張感との拮抗が続いた。
  •  以上のように報告してみると、ヴォーギングという既存のダンスを土台として、ジョーンズは独自の身体性を作りだしたことが分かる。ただし本作の狙いはそれだけではない。そもそも、踊る人の身体は言葉で説明し尽くせないものだ。本作は、そんな身体をはじめから完全に無記名なものとして呈示するのではなく、ヴォーギングからのズレや逸脱として見せたからこそ、かえってそれが何に属するとも言えない側面が強調された。そのためダンサーたちを見ていると、彼らの身体が、自分が既に知っているカテゴリーの外側へ逃げてゆくことに気がつく。差別や抑圧システムからの逸脱や変革といった社会的テーマと、身体的実感との架け橋が本作にあったとすれば、それはこの、逃しのプロセスを経験することだろう。
  •  両性具有の人物が体験する幸福や快楽について、『不思議の国のアリス』に出てくるチシャ猫を引き合いに出して表現したのはミシェル・フーコーだ。『不思議の国…』に出てくるチシャ猫は、闇に自分の姿を消しても、そのニヤニヤ笑いを湛えた口だけは宙に残したままでいる。ここで注目されたのは、あの猫のキャラクターの持ち味である、不可解で少し薄気味の悪い雰囲気だけが、猫という持ち主から離れて自律する、そんな事態だ。(『両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記によせて』)。さらにジェンダー理論家のジュディス・バドラーは、この比喩を受けて著書『ジェンダー・トラブル』の中で、ジェンダーという概念が実は人工的な虚構物にすぎないことを暴くためには、「まず最初に名詞があって、次にそれに従属する形容詞があるという既成の枠組みへの同化を拒む、規制されていない属性の戯れが必要になる。」とつなげている。『CLUTCH』は、ヴォーギングのテクニックや様式を、解体するのでも、丸のまま作中に挿入するのでもなく、それとは別な何かとのアナロジーを示唆した。こうして、既知の名詞による説明を受け付けない、名付けようのない身体が現れる。そこにはバドラーが述べたような、まさに「何」を修飾するわけでもなく、ただそこに漂う自律した形容詞や副詞があるだけなのだ。

 

  •  ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』公演より(photo : junpei iwamoto)
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  •  ところで、先述した「手捌き」の動きが登場するシーンは、中国を想起させた。ダンサーたちは弁髪のような被りものを頭につけ、その後ろでは中国語の音声が聞こえる時もあり、また舞台背景のホリゾントは赤に照らされた。アメリカの非営利組織National Performance Networkによる日米の作家交流プログラムの一環として創作されたという本作の背景を鑑みても、一見このシーンは不可解である。筆者の推測にすぎないが、このシーンには、中国映画がアメリカに流入した際、ストリートダンスがカンフーの要素を取り込んだという歴史が反映されたのかもしれない。公演後のトーク企画で語るジョーンズによれば、周囲にある物事を何でも利用して社会を生き抜いた非抑圧者たちの歴史が、彼にインスピレーションを与えたそうだ。なるほどヴォーギングが彼らの記憶をパフォーマンスとして現前させる装置となるならば、ドラァグ・クイーンたちが形成したコミュニティは、時間や場所を超えて現実社会にアクセスする力を持つこととなる。
  •  頭に取り付けたライトの細い光で手元を照らし、靴を履き替える者。何も映っていない空虚なスクリーンが天井から降り、その下で床に伏せてただただ頭を振り続ける者。女性用のハイヒールを履いて舞台で踊る者と、そこへものを投げつける者。作中にちりばめられたシーンは、社会の差別や暴力、圧力を表象する。さらに今回の客席は、ダンサーが動き回るアクティング・エリアを挟んで二手に配置され、観客はみな、向かいの観客の姿を目にすることになった。そこにあるのは視線が一斉にダンサーたちへと向かう風景である。ダンス公演にありふれた「観客が見る/ダンサーが見られる」という構図ですら、本作においてはアンバランスな力関係の表現として機能していた。
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  •  ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』公演より(photo : junpei iwamoto)
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  •  本作の創作にあたってジョーンズは日本に滞在し、日本のクラブや日本人の身振りのリサーチを経た。その成果が作品にどのように織り込まれるのかが気になっていたが、着物を羽織ったダンサーが唐突に登場し、かんざしのような長い物体を頭から抜いて舞台で踊る男に投げつけたシーンに関しては、日本についてのクリシェが使用されたという印象を受けた。異文化の表層的イメージを何らかの目的に利用する作家の創作姿勢は、コンテンポラリーダンス市場で流行するアーティスト・イン・レジデンス企画の実態としてしばしば疑問視されており、本作にも同様の疑問が湧いた。ただその一方で、そのような作家の身振りがちょうど「周囲にあるものを何でも掴み、利用する」という、非抑圧者つまりヴォーギングの生みの親たちによるがむしゃらな身振りと重なった点は示唆深く、本作の特色として記したい。ジョーンズによれば、『CLUTCH』には、何かを掴み(クラッチ)、小さなクラッチバッグに詰め込むという意味が込められているのだ。
  •  必死に、また自らの切実な欲望に向き合い生きたと思われる人々の痕跡が、最も生々しく立ち上がったのは、ペットボトルに入った水を用いたラストシーンである。小さな蓋に注がれる水が外に溢れ出す。ペットボトルを手にしたダンサーがゆっくりとポージングをすると、リノリウム製の黒い床に水が溢れて飛沫の模様ができる。それは単なる水の無秩序な様子でしかないにも関わらず、何か見てはいけないものを目撃した気分を抱いたのは筆者だけだろうか。普段からよく知る、あの無色透明でニュートラルな水を見て、気がつけばそれに重々しさと粘性を知覚していた。そしてこの気分を助長するかのように、フロアの端に座るダンサーがキスをして水の口移しを行っている。「スキャンダラス」とは何か、自問へ誘われた。
  •  抑圧のシステムに立ち向かい、逸脱するということは、決して容易ではない。言葉にするとスカスカになってしまう他者の経験が、ダンサーの身体を通して2018年の神戸に運ばれた。

 

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岡元ひかる

ダンス研究。現代以降のダンスを主な研究対象としている。神戸大学人間発達環境学研究科博士後期課程在籍。横浜ダンスコレクションEX2014コンペティションⅡ 奨励賞。薄井憲二バレエ・コレクション アシスタント・キュレーター。

photo : yang fan

 

 

《DANCE BOX International works》ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』

公演日時:2018年8月3日(金)20:00 / 4日(土)17:00

演出:ダレル・ジョーンズ 
出演:ダレル・ジョーンズ、J.スン・ハワード、デーモン・グリーン
音響:ジャスティン・ミチェル

主催 : NPO法人 DANCE BOX
共催:KYOTO EXPERIMENT
共同製作:ナショナル・パフォーマンス・ネットワーク/ヴィジュアル・アーティスト・ネットワーク(NPN/VAN)U.S.-Japan Connectionプロジェクト リンクスホール、フューズボックス、フリン・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ、日米カルチュラル・トレード・ネットワーク(CTN)、KYOTO EXPERIMENT
助成:駐日アメリカ大使館、平成30年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業、日米友好基金、国際交流基金日米センター、NPN/VAN USArtists Internatinal/ミッド・アトランティック・ファウンデーション 他 

『CLUTCH』特設サイト:https://archives.db-dancebox.org/program/2171/

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