2019.7.2
【公演レビュー】中間アヤカ&コレオグラフィ「フリーウェイ・ダンス」3/3(竹田真理)
REVIEW2019.7.2
【公演レビュー】中間アヤカ&コレオグラフィ「フリーウェイ・ダンス」3/3(竹田真理)
REVIEW
実際の中間の踊りは、細かく断片化されていて、インタビューをした提供者らのどのエピソードが、どのような振付としてそこに現れているのか、もはや判別不能である。提供された記憶は中間の貪欲な身体によって噛み砕かれている。手拍子、盆踊り、腕立て、腹筋、人形振り、膝立ちペンギン歩きなどなど、夥しい振りが等価に上演の中に織り込まれるが、どの部分を取っても、そこに個別の物語の奥行きを匂わせず、短いまとまり、あるいはカラリとした欠片が、ただ明快な踊りの形となって中間を動かすのである。そこでは日常性、キャラクターなど身体のローカリティに関わる要素は排されていて、パフォーマンスの全てが中間によって運ばれていながら、踊り自体に「中間らしさ」の刻印を残さないことも特筆される。そのようにニュートラルに開かれた身体であるからだろう、そこに去来した記憶は提供者たちのそれに限らず、死者たちすらも訪れて中間を踊らせていたように思われるのだ(ある瞬間の構えに黒沢美香の踊りを見た気がしたのは私だけだろうか)。
「ごはんの時間」を挟んでの後半、会場には一段とくつろいだ雰囲気と親密さが増しており、暗く落とした照明の中にトランペットが遠く響きを残した後、一転ファンクな曲が流れ出す瞬間の機微など、文字通り「楽園」が現れていた。チュールを幾重にも重ねたスカート(パニエ)を頭にかぶり白い鬣(たてがみ)にした中間は、このうえなくパンキッシュな様子でステージを下りると、網タイツの上にゴム長靴をはいてさらに動き回る。仰け反った反動で大きく前へ振りかぶる動作、ボクシング、再び現れる手拍子、盆踊り、腕立て伏せ。ロック、サンバ、懐メロ風のポップスにバラードと次々に曲調を変えて流れる音楽。この時この場に充満しているあらゆるものが中間を貪欲に踊らせる。衣装も何かの記憶に纏わるものであるのか、由来は明かされないが、パニエの上に和の半纏を羽織るといった不思議な着こなしも見られる。それぞれの服が身体を振り付けているのだろう。トライバルなリズムと女声の節回しにホップやステップが引き出され、ステージを上がり下りし、石の上でバランスし、クロールしながら移動する。音楽は止まず、ダンスは続く。2度目に川を流した後あたりからのダンスの密度など尋常ではない。
終盤、暗転の場面で、櫓の上に立つ中間は、青い月光のもと、高い場所を見上げながらゆっくり動き、何かを掴み取ろうとする仕草を見せる。前後には「ミスター・ムーンライト」「月の裏を夢見て」といった歌詞を含んだ曲が流れ、ここにはない何かを希求する、あるいはフリーウェイを月まで行ってしまいたいと願うダンサーの切なる思いが投影されたかに思える。「楽園」と対をなす印象深いシーンである。
ステージ上の庭で踊り続ける中間を残して上演は終わりを告げるが、確かなことは、このようなダンスの時間がスペクタクルの原理をもって現れるものではないということだ。本作は、筋書きのないフリーウェイを走り出したダンサーがダンスの現われの中に身を投じるために、時間をかけて周到に準備され、仕掛けられた大いなる実験だったのであり、誰よりも切実にダンサーであることを希求する中間へ/からの、中間を踊らせたいと願う者たち(観客も含め)から/への祝福と贈与の空間だった。ダンスの幸福の追求と、振付・作品・身体を巡るダンサーの思考が不可分な形で実現された稀有な実験だったと言えるだろう。
観覧日:2019年3月23日