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【公演レビュー】垣尾優『愛のゆくえ』(西川勝) | BLOG | NPO DANCE BOX

2019.4.25

【公演レビュー】垣尾優『愛のゆくえ』(西川勝)

REPORT, REVIEW

 

垣尾優『愛のゆくえ』を観て

 2019年3月10日、ぼくは息子と一緒に新長田へ向かい、お好み焼きを食べてブラブラし、ダンスボックスに行って、ダンスを観た。垣尾優のソロダンス『愛のゆくえ』だ。どんな顔をして会場を出たのだろうか、あたりまえだが自分にはわからない。だが、それが気になり続けて、もうすぐ5月になる。

 昨日の明け方、夢の中に出てきた言葉で目が覚めた。「木星まで行けるボイジャーは、、、人間という、、、よいか悪いか、得体の知れないものが、、、いったい何者なのかを、知るために、、、(ギーッ、ギィーッと雑音)、、、地球を飛び出した、、、」
 布団から転がるようにして這い出て、ふらつきながら煙草を吸いに自分の部屋に行く。ぼくは高血圧なので、寝起きでも頭はすぐにまわりはじめる。ショートホープに火をつけて、すぐにボイジャーをネットで調べる。夢の言葉は、案外とデタラメではなかった。しかし、なぜボイジャーが出てきたのか、夢のことを考えるのは精神科ナースだった頃からの癖になっている。煙を吐き出し、ふと納得する。そうだ、ダンス『愛のゆくえ』へのコメントを求められて、まだ一文字も書けないでいることが、普段は意識すらしないボイジャーを呼び出したのだ。

 ぼくがダンスを観に行くというのは、ごく限られた範囲のことでしかない。が、その因果には深いものを感じている。思いだしてみると、垣尾と縁のある砂連尾理とは、もうずいぶんと長い付き合いになっているし、垣尾がいた頃のcontact Gonzoとは一緒に遊んだこともある。もっと前、ダンスのプロデューサー志賀玲子と、勤めた大学で同僚になって面白いことに巻き込まれた。そういえば、メキシコまで「老人の踊り」を観に行ったことすらある。細かく思いだせば、きりがない。けれども、ぼくはダンスを観て何かを書くということは、ほとんどない。せいぜい、その場で自分に起きたことを、しゃべってお仕舞いなのだ。それで自分としては不足はなかった、、、いかん。書くことが言い訳めいてきた。

 観たダンスについて書くことは記憶に頼ってしまう。それも、観てしまった時点からの逆行的構成(理屈の後付け、後知恵)によってストーリーにした記憶に支配されがちだ。これはダンスを観ている最中の自分とはずいぶん距離がある。というより、別物だ。昔のギリシャの哲人のことばに「まわる独楽はつかめない」というのがあるが、動きそのものであるダンスを文字にするのは、固定した文字に生き続ける声の振る舞いを吹き込む詩人だけが為し得ることなのだろう。いかん。また、言い訳をやってしまっている。

 『愛のゆくえ』を一緒に観た息子は、二度目の妻との間に生まれた。10年以上前、彼が小学4年生のとき、彼の誕生日に、泣く息子を前にして、ぼくたち両親は離婚を決めた。翌日、ぼくは妻と手をつなぎ役所に届けを出しに行った。それからの息子は、ぼくと次の妻と一緒に暮らしたり、母親の元に戻ったり、一人暮らしをしたり、さまようように生きて、今は、ぼくの四度目の妻と幼い娘と一緒に暮らしている。といっても、食事のときくらいしか顔を合わせないし、話をすることもわずかしかない。『愛のゆくえ』は、この息子と観に行きたい、強く思った。おずおず誘ってみると、素直についてきた。ダンスボックスからの帰りは雨になっていた。駅近くの居酒屋に入って焼き鳥なんかを食べた。「ダンス、すごかったね」とだけ言う息子は、口数は少ないままだったが、店を出てから駅までの広場で、ぼくに傘を差し掛けてくれた。

 右手を挙げた垣尾が、舞台の右奥の端からゆっくりと斜めに歩いてくる。ダンスの始まりだ。彼の向かう先、舞台の左前の端には、半分ほど水の入ったガラス瓶がある。舞台上はシンプルなもので、その瓶があるだけ。奥の左上方には傘が吊り下げられていた。ぼくは息を詰めるようにして彼の足の運びを見つめ続けた。やがて、ガラス瓶に近づくと、右手が降ろされてくる。その指先は戸惑いにふるえて、くねって、冷たそうな透明のガラスに怯えながらも、触れようとしている。垣尾の眼差しは、そのガラス瓶から離れない。いつの間にか、ガラス瓶は、ガラス瓶ではなくなって、静かに佇む貴婦人になった。垣尾の表情は真剣で、一途な想いをこらえきれない指先のふるえに忍ばせている。がっしりした筋肉質の体躯とは異次元の細く長い指がしなるようにして彼女をつかむ。垣尾の手中に入った彼女は、自らの内側にある透明な水面をゆるがしはじめる。彼の動きに即応するように水が踊る。ゆっくりと渦を巻くかと思えば、激しく波打つように上下する。冷たいガラス瓶の中で、永遠のような水平面を示していた彼女が、身を震わせ捩りのたうつ。もう冷たさは微塵もない。いったい、どれほどの時が過ぎたのか、観ていることも忘れかけて自分の内に波立つなにかが静まったのは、ガラス瓶が再び独りで置かれたときだった。

 ダンスの中盤から猿のぬいぐるみが登場する。芯の抜けたような人形で、ふにゃふにゃと頼りない。さっきの貴婦人とは一変してコミカルになるのかと思ったら、そうではなかった。はじめのうちは人形とじゃれ合うようにして、垣尾が人形を持って動く。人形は垣尾の動きによって手足が動きはじめる。舞台の上での動きが激しくなる。右に行ったかと思うと左へ急展開、しゃがんだかと思えば立ち上がり走り出し急に止まり、両手を突き出す。その動きは言葉では追いかけることは不可能で、目ががついていくのもやっとの思いがする。一見その先が見えない複雑かつ急激な展開のなかで、次第に浮かび上がってきたのが猿とのぴったりした動きの同調であった。ゆっくり動けば、人形の動きがそれに附いてくるのは明瞭だが、激しい動きのなかで、猿が踊りだすのだ。もう受動的に動かされているのではない。猿と垣尾が激情の渦に共に巻き込まれている。ぼくは息をするのを忘れるほどに、その苦しさで、胸の奥が燃えそうになって気がついたのだが、魂を持っていかれてしまった。もう、ぼくはダンスを観ている余裕なんかなかったんだ。
 後で思いだすことになる垣尾の言葉、「うわすべりを紡いでいったら、いつのまにか愛だった。時間をかけて裏返したら、魂だった。」
 その魂は、どこに行くのだろう。激しく猿と抱き合い転がり続け、ついに垣尾は猿と離れて、四つん這いになってケモノになった。地面に這いつくばり、首を振りながら動き回る。何を求めて、どこに行こうとするのか。ぼくの過去が全部押し寄せてきた。遠すぎて見えなかったものが一瞬、姿を現して、ぼくを呑み込んでいった。

 頭で、ロゴスで、ダンスを観ようとしても無駄だし、無理だと思うが、月の映像に向かって垣尾と猿がシンバルを鳴らし続けるシーンは、観ているぼくには異物のように思えた。けれど、わからないことは後になって、ジーンと効いてくるものだ。考えを重ねて理解するというのではないが、思いもしないときに別様の姿で、自分に再訪してくるのだ。ぼくの場合、冒頭の夢の話につながってきた。ボイジャーはNASAが1977年に打ち上げた探査機で太陽系の惑星を訪ね続けて、現在では太陽系の果てまで到達しているらしい。無人の探査機だが、ゴールドディスクというアナログレコードが搭載されていて、地球に人類が存在することを地球外の知的生命体に伝達する目的を持っている。NASAの思惑とは異なるかもしれないが、人類が人類の存在の意味を知るには、人類以外からの応答が必要だというのはもっともな話だと思う。あのシーンは、宇宙に向けて垣尾と猿がシンバルを打ち鳴らして、人間の愛の意味を問いかけていたと思えるのだ。ボイジャーは現在も飛び続けているが、2020年には原子量電池が切れるらしい。ダンス『愛のゆくえ』の探査は、どこまでゆくのだろう。

 垣尾の言葉、
足音がしたので、応えたら
やっぱり雨が降ってきた
たまたまそこにいたおっさんと一緒に
雨宿りをした。
しずかに。
ほんとしずかに。
ほんとグルービィに。

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西川勝(にしかわ・まさる)
1957年大阪市生まれ。臨床哲学のプレイヤー(遊び人とも)を目指して活動中。
著者に『ためらいに看護』(岩波書店)などがある。

 

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