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下町芸術祭パフォーマンス・プログラム ディレクターコメント | BLOG | NPO DANCE BOX

2019.9.9

下町芸術祭パフォーマンス・プログラム ディレクターコメント

DIRECTOR NOTE

下町芸術祭 パフォーマンス・プログラム「家が歌う」

 

 3回目を迎える「下町芸術祭」。今回も、ダンスボックスはパフォーマンス・プログラムを担当します。10月12日から11月10日にわたって、計6プログラムを約16会場で展開いたします。

  •  先月の8月20日に、家と踊る ふたりのダンス「オンブラ・マイ・フ」の振り起こしが、砂連尾理さんと寺田みさこさんによって行われました。(「オンブラ・マイ・フ」は、砂連尾理+寺田みさこによる作品の一シーンとして、20年前につくられました。
  •  当時のビデオは残っておらず、記憶と音楽だけを頼りに、5分弱の「オンブラ・マイ・フ」の振付が再現されました。その過程でお二人とお話をした時に「当時、作品をつくる時、感覚的で直感的な、根拠のない確信があった。20年ぶりに振りを起こした時に、現在の自身の状況を予言するかのような振付が鏤められていた。根拠は未来にあったのだ」と。

 さて、突然ですが、話が変わります。

  •  哲学者である鶴見俊輔が、1956年に発表した「限界芸術論」という芸術論があります。(鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫 1999年)
  •  その導入部分に書かれたテキストを抜粋して紹介します。

純粋芸術は、専門的芸術家によってつくられ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみをもつ専門的享受者をもつ。大衆芸術は、これもまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆をもつ。限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的芸術家によって享受される。

「すべての芸術家が特別の人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである」というクームラズワミの言葉は、芸術の意味を、純粋芸術・大衆芸術よりもひろく、人間生活の芸術的側面全体に解放するときに、はじめて重みをもってくる。

 「限界芸術論」で挙げられた限界芸術には、日常生活の身ぶり、労働のリズム、盆おどり、獅子舞、替え歌、鼻唄、らくがき、祭、葬式、見合、記録映画、墓まいり、デモなどがあります。

 私はこの芸術論に強く惹かれ、ダンスボックスの拠点劇場が〈新長田〉に拠点を移して、2009年からの10年の間、このテキストに応答するかのような場を少しずつ作って来ました。

  •  なぜそのような場をつくりたいと試行したのか、大きく二つの点があります。  
  •  一つ目は、劇場という場がそもそも大前提としてある、舞台と客席から成る構造を、根底から考え直したいということ。そして、我々の劇場の拠点である新長田という地域の文脈の上だからこそ編むことができるような、独自の劇場のあり方がないだろうかと考えたこと。
  •  二点目は、これまでのコンテンポラリーダンス公演において、ダンス愛好家がその観客の大半を占めるという状況に対して、いかに間口を広げる事ができるだろうかということ。そして、その過程を経ることで、自己完結的で自己内省的な傾向を孕む(勿論全てではない)コンテンポラリーダンスに風穴を開けたいと考えたことです。

 「新長田で踊る人に会いに行く〜新長田のダンス事情」を皮切りに、ダンスに限らず、映像、音楽、ファッションショー、カラオケなどの切り口から、暮らしを舞台に、場をつくってきました。その過程において、コリアンやベトナム、奄美等とつながるコミュニティが共在し、その他にも多様な言葉が発され、独自の文化が育まれている〈新長田〉の様々な表情と出会い続けています。そのなかで息づく、ダンスや踊り、民謡やカラオケ、写真や映像からみえる限界芸術的なこと(勿論限界芸術的なことだけではない)に、目を凝らすようになりました。これらの過程は、〈芸術文化〉と〈生活〉が重なる領域を見つめることでもあり、それらの領域は、探れば探るほど奥が深く、果てしのない広大さが広がります。時にその美しさや尊さに圧倒されながら、その広野を少しずつ歩いて来ました。

 鶴見俊輔の「限界芸術論」の約200年前にあたる1758年。フランスで活躍した哲学者ジャン=ジャック・ルソーは「ダランベールへの手紙—演劇について」に、次のような一文があります。(『演劇について ダランベールへの手紙』ルソー著 今野一雄訳 岩波文庫 1979年)

広場のまんなかに、花で飾った一本の杭を立てなさい、そこに民衆を集めなさい、そうすれば楽しいことが見られるのです。

 私は、ここに鶴見俊輔の「限界芸術論」につながる水脈が、地域・時間を越えて、脈々と流れているように思います。この水脈にはこれまでの多くの思想や実践があり、日本国内では、鶴見俊輔の以前に、宮沢賢治の農民芸術概論があり、さらにその先駆けには、坪内逍遥のページェント劇など。この水脈と現在と新長田が交差するところに、下町芸術祭2019 パフォーマンス・プログラム「家が歌う」を位置付けることが可能でしょうか。大仰なことでしょうか。

 ルソーの言葉を借りると、新長田のさまざまな場所で、家・コミュニティ・スペース・広場・道なりにも、花で飾った杭を打ち立ててみたい。そのことにより、芸術文化と生活が重なる領域を可視化させ、新長田ならではの新たな領域を編みだすことができないだろうかと考えています。

 そして、今回のこのプログラムに向けたもう一つの動機について書いて終わりとしたいと思います。このテキストの冒頭、砂連尾理さんと寺田みさこさんの稽中の会話で発せられた「根拠は未来にあったのだ」という一言に戻ります。今回のプログラムの根拠は、未来を担う子ども達にある、ということに挑戦したい。だからと言って、子ども向けのプログラムをつくった訳ではなく、大人と共に楽しめる、楽しんでいる大人の背中を見ることができるようなプログラムの配置にしました。(但し、一つだけ大人限定のプログラムもあります)それは、現在はこの順番が大事なように感じているからです、直感的に。

 皆様それぞれの楽しみをここで見つけて頂ければ幸いです。

 

  • 2019年9月9日
  • 横堀ふみ
  • NPO法人DANCE BOXプログラム・ディレクター