2017.3.17
[対談]隅地茉歩×国内ダンス留学@5期生
INTERVIEW2017.3.17
[対談]隅地茉歩×国内ダンス留学@5期生
INTERVIEW
泰山 今回、メンターという形で私たちのクリエーションに関わっていただいていますが、茉歩さんはメンターという役割を今までも経験されていますか?
隅地 いえ、メンターと銘打ってやらせていただくのは今回が初めてです。でもこの数年、市民参加のプログラムなどの仕事の中で、まだダンスに出会って間もない人たちとの作品づくりも多くて、参加している人たちが本番を迎えていくまでのメンタルのケアや身体のケアにも関わっています。もう何十年も踊っています、という人もいれば、初めて踊ります、という人もいたり。そういった色々な世代の人たちと一緒に仕事をさせてもらえていることは、そういうことが自分の経験になかった時とではやはり変化しました。踊りというものをもう少し広く見るようになったかな、と思いますね。
泰山 多方面でご活躍されている茉歩さんですが、ご自身が主宰されているダンスカンパニー セレノグラフィカは今年結成20周年を迎えたとお聞きしました。おめでとうございます。
隅地 ありがとうございます。いつまでやってんねんという感じですが(笑)
泰山 20周年って大きな節目ですよね。踊りを続けて来られる中で、あるいは作品づくりをされる中で大切にしていることってどんなことでしょうか?
隅地 ずっとダンスを続けていくと、あるものを確立・獲得していって、何かが意識しなくてもできるようになるという道筋って辿るじゃないですか。でも、それができたら一旦は壊すというか、無しにするというか。そこからまた新しいものはないか、ということを探して、こうじゃないか、ああじゃないかと、確立しては捨てて、確立しては捨てて、ということの繰り返しだったかなという気もしますね。
泰山 確立したものを捨てるって、結構勇気がいることだなぁと思いました。これを捨てたら自分に何が残るだろうという気持ちになっちゃいそうで(笑)。
隅地 もちろんそれもあるんですけど、でも踊りを続けていく中で、一つのことに慣れていってそのものに対する新鮮みを感じなくなってしまうことの方が怖いなって思ったんです。今までの国内ダンス留学では授業形式だったのでその最後にも皆さんにお話してたんですけど、自己模倣するのを止めてみるということを伝えてきました。これまでやってきたことで成功したこととか、自分の知ってるやり方とか、こうすれば人が喜んでくれるとか、そういうのって記憶にも残るし、それは充実感とか幸福感をともなった記憶だから結構根強いんですよね。どうしても人間というのはそういうものにしがみつきたくなるし、それが悪いことではないんだけれども。でも、違う喜びがきっとあるはずだと思うんです。だから、冒険をしたほうがいいのではないかな、という考えではありますね。
泰山 今日のクリエーションを茉歩さんに見てもらうことによって、今までつくってきたものを違う目線で見てみることや、捉え直すきっかけになったように感じています。
隅地 今までつくってきたものは一旦それはそれで置いておいて、別角度から見てみると、ここはこんな景色だったんだ、と気づいたりすることってよくあると思うんでよね。今から私もみなさんのクリエーションの中に入っていきますが、どれだけ客観的に見れるかということを一番大事にしないといけないな、と思っています。どうしても身内同士になると前提が共有できてしまうから、ここはもちろんこうですよね、ああですよね、という風に話が通じ合い過ぎるんですよね。でもそこに「なぜここにこの音楽がいるの?」とか「なぜこの順番なの?」とか、根底から素朴な疑問を尋ねてくれるような人がいるっていうのは創作にとって強みであると思いますね。
池上 僕も作品をつくろうとした時、自分の中でやりたいこととか、こういうのが好きだ、という確立したものがある中で、いざそれをやろうと進んでいくといつの間にか視野が狭くなっていたり、本当にこれでいいのか?という疑問に行き当たります。そうなったときに、どう壊して組み立てていくのか、というところがやはり大事になってくるのだなと感じています。そこは振付家だけのものではないし、ダンサー同士で話し合ったり、あるいはスタッフや色々な立場の方など、多角的に作品を見ていくことや視野の広がりを持つことが必要なのかなと思いました。
隅地 もう本当に猫の知恵でもいいから借りたいんだよね(笑)創り手って孤独なものだから、早く安全なところへ行きたいっていうのは分かるんです。ここを通れば早く片が付くとか、作品が何分間できていれば安心できるとか。もうそれは人情だからそれを攻めたりしなくて全然いいんですよ。嘘でも荒くても最後までつくってから細かいところを詰めていくやり方の人もいたり、始めから畳の目みたいにひとつひとつ進めていくタイプの人だっている。これは創り手それぞれです。だけど、前提を共有できる人とだけで「これ正しいよね、うんうん、正しい正しい!」というような関係性の中にだけ自分を閉じ込めてしまうのはすごく勿体ないことですよね。みなさんが国内ダンス留学を卒業して、色々なクリエーションをやっていく相手の中には、予想をはるかに超えた人が来る可能性もあって、私もクラシックの演奏家の方とコラボしたりすると、「こっちの常識アンタの非常識、アンタの常識こっちの非常識」みたいなことってあるんですよ。でもそうなると、「あぁ、自分が常識だと思っていることなんて、本当に小さい狭いことなんだな」と思ったりすることもあるし、でもそれを持っていながらも「じゃあ一緒に知らないものを見つけていきましょうよ」って思えた時には、やっぱり素敵な時間とか体験ができるんですよね。だからあまり自分の常識にとらわれないことが、いくつになっても新しいものが見れる、ということを可能にしてくれることだと思います。
池上 今日のクリエーションでも色々実験をした時っていうのは、今までにはなかった新しい風が吹いたような感覚になりました。一つのシーンを無音にしてトライしてみたとき、動きを変えたわけではないのにそれだけで身体の印象や見え方が変わったんです。改めて、僕は生きた身体を扱っているんだ、ということを感じたし。“人”っていうのを感じました。
様々な経験値の方とご一緒されている茉歩さんにとって、ダンスの技術ってどういうものだと思いますか?
隅地 昔、黒沢美香さんが創作をされるときは「ダンサーであるかどうか、というのを私は問いません」と仰っていたんです。つまり、技術っていうものをどう捉えるか、ということでもありますよね。例えば、身体に障がいをもっている人は踊っちゃいけないのかとか、そのようなことにまで発展しますよね。だから自分が表したい、触りたい、突き止めたいものに対して、自分の身体をどういうふうに掘り起こしたり、鍛錬していけるか、というのが技術だと思っています。みんなができることを取得するということだけが技術ではないとは思いますね。どう踊れていれば自分が一番正直に喜べて、それを誰かと共有したいと本当に思えるのか、ということを突き詰めていく責務はあるとは思います。私たちはそれを仕事としている人間だから。振付家はみんなの身体を預かっている部分もあるので、みんなの身体がどこへ行きたがっているのかに耳を傾けるということ、そこから目を離さないことが振付家としてできることだとも思いますね。
池上 僕はまだ自分自身がつくった振付を「型」や「デザイン」として終わらせている気がしているんですけど、本当はもっとその振付の向こう側にあるものを見たいと思っていて。例えば作品中にあるステップをどんどん繰り返していった時に、繰り返すことによって見えてくる身体の変化やこの11人のダンサーだからこそ向かっていけるどこか、振りが振りで終わらない、その先があるような気がしています。それはまだ今は見えていないところなんですが、僕はそれをしっかりと見つめていかないとと思いますし、この先にある景色を11人で見たいなと思いますね。
泰山 まだまだここからだって思うよね。
隅地 もちろんその道のりには迷いだって生まれるだろうし、その方向については二転三転することはあるかも知れないですよね。苦しい過程でもあるとは思います。でも、私が今日みんなのクリエーションを見ていていいな、と思ったのは、その都度もっといいものを触ろうとしてやっている、みんなの気持ちみたいなものが見えて、すごくいい空気だったなぁと思ったんです。本当に踊る喜びがなんであるかということを自分の中にもちたい、大事にしたいと思っている人たちの集まりなんだ、っていうことが感じられる空気でした。それは関わる私にとってもすごい喜びでした。何か行き詰まることがでてくると忘れがちではあるんですけど、でもその本来の踊る喜びみたいな部分に立ち返るということを大切にしたいですよね。
清水 たっくんが案を出して、この作品をつくったんですが、自由でありながら、自由ではない感覚を「マナーモード」と名付けて、クリエーションを始めました。よくあるダンス、これ見たことあるよね、みたいなことを、私も大学からダンスをやっていて、先生や友達から言われたことがありました。茉歩さんは大人からダンス始められたと伺っていますが、そういったものを感じたことはありますか?
隅地 まず最初に思ったことは、疑わずに一回丸呑みして、それを身体に入れ切るっていうか、それはまずしないと、話が始まらないな、っていうこともあるんですよね。私は最初に出会ったのがステージジャズの先生で、その後にバレエがきて、という道筋を辿りましたけど、放っておいてもそれを身体がし始める、っていうところまで身体に入れてしまう、っていうんですかね。こまでいかないと、捨てるにも捨てようもないだろう、ということがあるんですね。前にスカイプで田中さんと(池上さんと)3人で話をした時に話をしたんですけど、《守破離》って言葉があるじゃないですか。主に茶道の言葉で。守る、破る、離れる、っていう守破離。古来の芸事全般に通じる考え方なので、時間的なスパンは現代の世の中で適切かどうかはわからないけど、最初の10年間は師匠が言ったことは100%やるの。おかしいなと思ってもやるの。で、破る。次の10年間っていうのは半分聞いて半分は背いてもいい。その最後の10年で師匠がなにを言っていようとも師匠のいうことを聞かなくてもいい、自分で考え、自分で編み出す、離れるっていう。この様なことだったんだと思うんです。今、30年っていうスパンをとらないといけないか、ということはわからないけど、そこには真理が潜んでいるな、っていう。最初から離ってことはできるのかな、っていうのがあるんですよね。なにも入れてもいないのに、これよりも新しいこととか、これとは違うこと、みたいにね。何を縁(よすが)にしていけるのか、っていうことがあるから。私もいろんな地域でコミュニティと関わって仕事をすることがあって、大人になってからテクニック的なトレーニングを積んでいる訳じゃない人がダンスと出会って、魅力と出会って、続けていく、っていうことになったときに、必ず悩みが生じるのがそこなんですよね。自分が何かを地道に鍛錬して、そこを狭い道でもいいから耕したっていう経験をもっていないと、自分がやりたいことをどうやってそこにつなげていけばいいのか、っていうことにすごく迷う。真面目であればあるほど悩む。そういう人を見てきているし、その都度その人と一緒に考えるってことはするんですけどね。この守の部分、身体をこう躾てあげる、身体がある種、意のままになる、その大分手前でもいいから、どうなっているのか、っていうことを自覚できるようになるまででも時間かかるじゃないですか。そこと向き合わざる得ないことですからね。踊ることっていうのは。始めから好き勝手ということではないと思います。ところで、大きなテーマに取り組んでいると思うんですよね。今回の作品って。だからこそ、ちょっと気楽にね。ここはこうだって分かったときに、その鮮度をどうやって保ったまま本番まで持っていくか、また違う難しい問題だったりするのよね。楽しくやるっていうのは失わずに、この2週間をみんなでいきたいなって思いますね。あまり笑顔が消えることのない時間を重ねながら。深い楽しみを知るために、通らないといけない辛さ、苦しさというものはあると思いますけど。
泰山 今、話してくださっていたことが、茉歩さんの振付家として、作る姿勢であったりとか、やっていっていることだと思うんですけど、“振付家”として茉歩さんが大切にしていることを教えてください。
隅地 あんまり大それたことだと思わない、ってことかもしれないですね。(作品や踊りが)自分にとって一番大事なことだったりするじゃない、それこそ大問題じゃないですか。でもそれは世の中にあったっていいけど、無くったって大したことない、っていうか。そういうちっぽけなことでもあるっていうことを、どこかで持っておかないと。偏った、捻じ曲がったダンス至上主義に陥ったり、芸術以外のものは価値がないとか、そういうことに陥りそうで怖いです。まだ教師だった頃のことですが、土日公演があって、次の日の月曜日の1時間目から授業があったりするわけね。それまではスタッフもろともに、この公演を良くするためだけに取り組んで、打ち上げが済んで、一晩寝て、ヘロヘロの状態で学校に行ったら、誰もそんなこと知らないわけ。誰もそんなこと知らなくて、高校は高校ですごく平和な時間が流れていて。生徒は生徒で機嫌良く授業に来てて、っていう。そこでよく目が醒める思いがしていました。あの時のあの感覚を忘れたらダメなんじゃないか、って思うんですよ。そうじゃないと自分のダンスのために、誰かが、何かを奉仕することが当たり前のような勘違いを起こしていきそうで怖いです。
泰山 生きている中やったら、いろんなこととの関わりがあるじゃないですか。ここしか見てない!ってのじゃなくて、茉歩さんはいろんな経験もされているし、だからなんか、ポジティブさを持てるのでしょうか。
隅地 わからないですけどね。私もちんまいことでグジグジ思うほうですが。なんかちょっと心のどこかに隙間を作っといてあげる、それが自分のことも元気であり続けさせあげる一つの原動力でもあるかな、って思いますね。