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【K-ACDF】ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー(後編) | BLOG | NPO DANCE BOX

2017.11.11

【K-ACDF】ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー(後編)

INTERVIEW

京都市立芸術大出身者を中心に結成され、今もなおメンバーが入れ替わりながら国際的な活動を続けているダムタイプ。そのメンバーのひとりとして活動されていたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんに、今回上映される 生まれるべくして生まれた『S/N』の作品を中心にお話を伺いました。

 

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-なぜそのタイミングだったんでしょうか。

 

ブブ:エイズを発症してしまったんです。ヘルペスと腸炎だったと思います。彼がHIVに感染したのはその数年前で、ニューヨークで検査して陽性であることを彼自身は知っていて、でも発症してないし彼はなかなか周囲に言えなかったのだと思います。日本ではまだ言える環境じゃなかった。誰もエイズのことをちゃんと知らなかったし、偏見もあった。彼は家族や友達の誰にも言えずにその事実を数年間ひとりで抱えていました。でも発症してしまって体調も酷く悪くなっていたので、これはもうみんなに伝えなくっちゃって。その時ダムタイプのほとんどのメンバーは同時進行していた別の作品の為にコペンハーゲンに居ました。コペンハーゲンにいるメンバーにはFAXで、日本にいるメンバーには手紙でという感じで。悌二としては、ダムタイプのメンバー、それからダイアモンドナイトのメンバー、全部で30人くらいかな、自分がこれから一緒にものを作っていきたい人たちに同時に知らせようって思ったんですね。一人ずつ話すと最初に聞いた人が黙ってなあかん時間が辛いとか、その人も誰にも相談できないとか、すごく辛いことが起きるっていうのを彼はニューヨークで経験していたから。それは彼の思いやりだと思いました。同時にみんなに知らせたら知らされた人どうしがケアし合えますから。そんな感じでカミングアウトされて、だから『S/N』という作品は自分たちが友人のHIV感染と発症、そして彼自身のセクシュアリティのカミングアウトをどう受け止めるかということと否応無く向き合わなければならない時期に始まったんです。彼は親にも兄弟にも言ってないし、じゃあ病院の診察の付き添いや看病、ひょっとしたら看取りとかどうする?みたいなことを、いわば新しい家族ですよね。私ら友達どうしでこれからやっていくんだなって、だんだん了解みたいなものが広がっていったというか。みんな、HIV/エイズという病気についての知識はほとんど持っていなかったけど「すぐに死ぬ」というイメージはすでに社会には浸透していました。今(2017年現在)は早めの検査と治療で一生付き合うことが可能なところまで医療は進歩しましたが、当時は本当に新しい病気でしたから。

ですから悌二の手紙を受けてまずはどんな病気なのかを正確に知りたかったけど、本屋にも必要な情報は全然ありませんでした。インターネットが普及していない時代です。すでに活動を始めていた各地のHIV/エイズNGOなどに話を聞きに行ったりしました。作品の制作と平行して自分たちが悌二をケアするための情報を集めていたのですが、だんだんその状況に腹が立ってきて。

 

-なぜですか?

 

ブブ:悌二はただ病院に行くだけでもしんどいのにね、なんで家族に言えないのか。当時血液製剤によるHIV感染の訴訟中でそれは「良いエイズ」、だけど悌二みたいに男性同士のセックスで感染したエイズは「悪いエイズ」だと言われました。自業自得だと。マスメディアの扱いも酷いものでした。病院も例えばうちでは診られませんとか、診察を後回しにされるとか、プライバシーも守られないとか、看護師さんは体を普通に触るだけやのに手袋してるとか、彼が使った食器は捨てられるとか、酷かった。でも彼は主治医も教育して行かなければって手紙にも書いていました。身近な主治医や医療スタッフを教育するということは、社会に対するアクションでもあります。例えば当時の全国の保健所が配布していたパンフレットにはHIV/エイズの予防方法として「不特定多数の人や外国人とのセックスは避けましょう」とは書いてあるけど、コンドームの「コ」の字も無かったんです。いやいや、不特定多数であろうと外国人だろうと、正しく予防をすればそれは全く関係ないということを言って行かなあかんのちゃうかって。それで『S/N』の制作と同時期に、京都市立芸大の後輩たちが中心になって『エイズ・ポスター・プロジェクト』が始まりました。小山田の呼びかけでダムタイプオフィスの近所で『アートスケープ』という共有空間の運営も始まりました。小山田はダムタイプが海外で経験したようなアートセンターが京都にも必要だとずっと考えていたんです。だからそこはアーティストの滞在や交流、社会的な活動も持ち込まれる場所になっていきました。ダムタイプのメンバーも使うけど、小山田や悌二のビジョンに共感した学生やいろんな人が集まって『エイズ・ポスター・プロジェクト』や『ウーマンズ・ダイアリー・プロジェクト』、後には当時まだ少なかった『セクシュアルマイノリティの映画祭』の事務所としても使われるようになりました。

 

-それらは具体的にはどのような活動だったんでしょうか?

 

ブブ:自分たちが必要とする情報を発信するということかな。そのために直接出会ったり、印刷物やイベントという手法を開発したり。

ダムタイプとしてはそれが『S/Nの為のセミナー・ショー』という作品になりました。HIV/エイズやセクシュアルマイノリティの存在についてほとんどのマジョリティが今よりも無知だった時代に『S/N』を作ってそしてそれを見せるためには、まずダムタイプのメンバーや身近な人たちがちゃんと考えて話したり悩んだりする期間が必要やと悌二は考えたのではないかと思います。それで『S/N』初演の前に『S/Nの為のセミナー・ショー』という準備段階の作品を無門館でやったんです。ダムタイプの周りでゲイやレズビアンやバイセクシュアルだということをカミングアウトしてる人に舞台に出てもらって対談するという形式でした。その合間に男性同士が抱き合うシーンやセックスに関するテキストのプロジェクションが挿入される。ショー仕立てのセミナーです。でもその内容があまりにも直接的だったので、つまり男同士のセックスを視覚化したり、ヘテロセクシャル優位な社会はマイノリティに対していかに鈍感で暴力的か、特にヘテロ男性はダメみたいなことを延々と喋るから(笑)、お客の中には「自分は『pH』とかシュッとしたかっこいいダムタイプを見に来たのに、自分のセックスについてなんで説教されなあかんねん。こんなんアートじゃない!」って怒り出す人もいたし、泣き出す人もいた。実は自分もレズビアンでってカミングアウトする人もいたりとかで、終演後の客席は混乱しました。ダムタイプのメンバーはそのお客たちや友人と話す。とにかくリアリティーを共有したい、それなしでは作品は作れない。アートはアートっていう風には最早できない、何としてでもセクシャリティも含めたリアリティを獲得したい、それは社会というか「アート界の外の人たち」をも含めたコミット抜きでは不可能だということも学んでいきました。

 

-すごい、本当に壮絶ですね。

 

ブブ:悌二はニューヨークで、『ACT UP』という団体の活動をすでに見ていました。『ACT UP』は例えばエイズ治療薬の値下げ要求デモなどの直接行動を行なっていました。また『Visual AIDS』というグループはHIV/エイズのドキュメント写真を路上のビルなんかにプロジェクションする。そうやって社会を、人々の意識や制度を変えていくことが可能だと悌二は知っていたんですね。でも私らは誰もそんなの見たこともないしイメージもできないしインターネットで動画を見るなんてことも無い。わからへんけど、でも、どうも悌二には何かはっきりとしたビジョンがあるってことだけはわかる。アーティストとアクティビストの連帯や、どうやったら社会にインパクトを伝えることが出来るか。

私はとにかくそれらを見に行こうと思ってニューヨークに行きました。『ACT UP』の毎週月曜日のミーティングも行きました。そこでは例えば「今週は役所の前でデモをするから私はこういうプラカードを作ります」とかのプレゼンがどんどん出てくる。それぞれの立場からやることをやる。人がバタバタ亡くなる状況でしたから。そのミーティングにはマイノリティもマジョリティも、HIV陽性の人もそうでない人も混在して自分が社会に持たされている課題を自発的に引き受けるというか。私はこれはすごいなと思いました。同時にアーティストたちはブロードウェイやオフ・ブロードウェイや映画の世界で、ポリティカルな作品からアーティスティックな作品までどんどん生み出していってました。

 

-古橋さんが日本でもやろうとしてはったことですね。

 

ブブ:そういうことなのかなって思って、そのことを日本に帰ってとりあえず芸大の学園祭でみんなに報告しました。小さな教室が一杯になりました。その後そこに来た学生たちが中心になって『エイズ・ポスター・プロジェクト』が生まれてどんどん盛り上がっていきました。その頃、1994年の夏に横浜で『国際エイズ会議』が開催されました。世界中から来るHIV陽性者やセクシャルマイノリティやアーティストと出会えるチャンスだからというので、悌二はその会議に「文化プログラム」を持ち込むことを提案しました。彼は本番には体調を崩して入院していたんですけど『エイズ・ポスター・プロジェクト』のメンバ−50人くらいで横浜に行って、そこでイベントをやりました。シンポジウムや、屋外でのスライド上映とダンスパーティーです。そこで世界で共通の課題とかマイノリティやアーティストがどうやって連帯してるのかを目の当たりにしたんですね。だからこの『国際エイズ会議』への参加は大きかったです。『S/N』の初演は1994年の春です。オーストラリアのアデレードでの初演の準備をしながらエイズ会議の準備が同時進行でした。ダムタイプのメンバーは両方の作業を行き来しつつ、学生たちは『S/N』が出来上がっていくプロセスを横目で見ながら、あるいは時々ミーティングにも参加しました。私は作品がこういった人々の活動に支えられて強度を増していくというのを間近に見ました。それが作品の中のモチーフに反映される過程ですね。例えば鞄に詰め込まれた女性のシーンがあるんですが、それは人身売買を想像させるし、それは当時私たちのネットワークには外国人労働者の課題に取り組んでいる人も居たから、その問題も日常的に感じられたんです。

 

-机上の事じゃなくって、経験したものとして。

 

ブブ:そうそう、そういう実感というか、それしか舞台に上げられへんと思ってたから。知っているから許される、というものでは無いとは思いますが。でもHIVを持っている悌二という友人と過ごすことが私たちの日常でしたから。それでも観客は「え?HIV陽性って本当に本当なんですか?」って問うんですよ。「本当やったらどうなん、嘘やったらどうなんですか」って逆に聞き返しました。カミングアウトってどういうことかって延々話もしました。でもそれをやりつつ、あれだけの映像と音楽とコンピュータープログラミングと照明とテキストを高谷や山中さんやウエッチや金星さんや泊(とまり)さんは作り上げました。それは大変なことだったと思います。

 

-いろんなことが積み重なってホンマに生まれるべくして生まれた作品なんですね。

 

ブブ:とても特殊な状況ではあったと思うんですよね。悌二のエイズ発症とカミングアウトというのは。私自身は『S/N』の制作を通して一から何かをフルスピードで経験していると感じていました。その後、かなり時間が経ってやっと世間が『S/N』に追いついてきたっていう気はするんですよね。当初は「エイズやセクシュアリティを扱った作品」だと盛んに言われました。でも私はその評価には違和感がありました。確かにそのことは私たちの背景ではあるけれど、それを通して伝えたいことがあった。

 

-例えばその社会的なことも含めて、テーマとしては生死にかかわる重たいものだし、それをいかに舞台に上げて観客に届けていくっていうその試行錯誤、工夫を凝らしたポイントっていうところに今もなお学ぶべきことがたくさんあるような気がするんですよね。

 

ブブ:例えばどんなところですか?

 

-私は『S/N』をフルで見た事はないんですけど、前おっしゃってたのがユーモアがあるっていう事だったりとか、伝え方の手つきというか、そういうのがあると思うんですよね。言いたい事をそのまま伝えて伝わるかって言ったら伝わるわけではなくて、それをどういうレイアウトでそれが発信されたのかっていう。

 

ブブ:そうですね。例えばさっき言った「鞄に詰められて運ばれる女性」は急に歌い出したりするんですよね。コミカルでもある。一瞬のシーンですが、複雑なことだと思います。

メンバーそれぞれの経験やアイデアはどんどん集積していきましたが、悌二が最終的に演出の部分を担ったというのはあると思います。それまではさっき言ったみたいに中心者を決めないという関係だったんですけど『S/N』が始まる時に悌二が「今回は僕に仕切らせて」と言ったと、高谷が後の新聞インタビューで話しています。悌二にはやはり演出のビジョンはあったと思います。複雑な事柄をどんな順番で編集するかは。他のメンバーは全体像をイメージできるほどの余裕はなかった。それぞれが自分のリアリティを作品に持ち込めるかということに必死だったと思います。パフォーマーは自分の体や生活を生々しく反映させることもできる。でも音楽や映像の制作やそのオペレーションはまた別の集中力が必要とされると思うんです。ある意味説教くさい、啓蒙的で深刻にならざるをえないテーマを、またパフォーマーの生々しい不完全な身体を、いかにカッコよくみせるかっていうことが最大の勝負やったと思うんです。私が安心して自分の未整理で不恰好な日常の話を舞台に上げることが出来たのも、それが最終的には人に見せることができるものになるという、他のメンバーへの信頼があったから。それは、先日一緒に仕事をさせていただいた山下残さんに対しても同様に感じました。

 

-その信頼関係は、古橋さんがお亡くなりなった後の上演でも変わることはなかったんでしょうか。

 

ブブ:そうだと思います。1995年に悌二が亡くなって、1996年に悌二の居ないバージョンを上演しました。その前後で作品としてのクオリティに差は無かったのではないかと思います。

悌二が亡くなって22年になります。最初の10年くらいはやっぱり私の中である種の呪縛がありました。私は自分がある種演じたこと、例えば実際にセックスワーカーではあったけれど舞台上でそれを表明することとか、裸であることを引き受けること。引き受けることは自分の意志だったけど、それを常に言語化することをも期待されていると感じていました。常に自信に満ちてなければいけない、みたいなことにやっぱり縛られてしまって、その呪縛がだんだん解(ほど)けてきたのが10年後くらいかな。いろんな人に見せたり話したりすることによって、だんだんそこから解放されてきたというかんじです。今は以前より楽ですけど、最初の頃はやっぱりしんどかった。何がしんどいのかもわからない。自分がどうしたいのかもわからない。悌二が亡くなった時のテンションを引き受けたまま時が過ぎていった。でも私はそれも必要な時間やったと思うんですよね。それだけ集中して人前に提示したことの意味っていうのが自分の中に落とし込まれるっていうのに時間がかかったし、しんどかったけどやっとそれが今、次のフェーズに移れそうかな、みたいな予感があります。

 

-ちょっとうまく聞けるかな。最後の質問になると思うんですけど、このフェスティバルの他の作品の中の一つに、ベトナムの映像作家さんの作品で、おばあさんの骨を洗うっていう「洗骨」っていう儀式を撮った映像作品があるんですね。これは亡くなられました、葬式します、それから土葬するんですよ。火葬ではなくて土葬。そして死体が腐りきるのが3年くらい。今は抗生物質とか飲んでるからなかなか腐りにくいらしいんですけど、3年経ってから遺体を出して骨を洗ってお墓に入れなおすっていう儀式があって。最初に亡くなった時のお葬式が1回目のお葬式、この「洗骨」が2回目のお葬式っていう捉え方みたいで、この時にようやく亡くなった方が、本当の意味で亡くなる。最初のお葬式から2回目の間は、現世に未練があったりとか、まだちょっとここにいるような、そういう捉え方の死生観があって。

 

ブブ:それはベトナム独自のことなんですか?

 

-いや、なんか沖縄とかにもあるみたいで、やっぱり東南アジアとかその辺の文化の繋がりというか。今の話を聞いた時に、亡くなった悌二さんを弔うっていうその時間と、ブブさんの『S/N』を上演されていうのが、弔いの一つの行為であるような、そういう感じもしてるんですよね。もうそれは、家族ですよね。

 

ブブ:…そうかも。やっぱり作品って儀式的な要素があると思うんです。私は「成仏」って宇宙に還るというかね、物理的にも魂的にも宇宙に溶け込むというか、そういうことだと理解しているんですけど。医師が死亡時刻を宣言し、社会的にも物理的にも死だとみなされ、肉体は有機的に分解される。それと平行して命自体はゆっくりと宇宙に溶け込む、それにはやっぱり時間の幅があると思っていて、とても緩やかな時間の流れではないかと思うんです。それは一つの個体、一つの命の中にもあるし、その人が関係した人々、家族と呼んでもいいし友人と呼んでもいいと思うんですけど、その人たちにも波動のように、温度とか湿度とかエネルギーとして伝わってくる。それらをひっくるめてお互いに影響を及ぼしあってると思うんです。だから悌二が亡くなった直後、例えば話しかけても返事がない、でも問いかけるということは可能でそれに何か応答はあるはずだって感じました。こっちの単なる思い込み以外に。生きてる私の感受性ではキャッチできない応答が。それは対話のチャンネルの問題であって、その人が生きていてもすごく遠くに居たら「今どうしてるかな?」と思うのと似ていると思うんです。

命が静まるまでのプロセスというのかな、さっき仰った2回目のお葬式とか、身近な人が良くも悪くも影響を与え合うのが家族とも呼ばれ友人と呼ばれるということかな。夫婦でも親子や兄弟姉妹でも全く他人でも繋がってる人たち。だから儀式っていうのは作品であれ習慣としての儀式や風俗であれ、その周辺にいる人々が何かを共有するための人類の一つの知恵だと思うんです。

 

-それは生活の中にあるお葬式やお通夜だったり、あるいは「洗骨」の儀式だったり、またそれが一つの舞台になるということでしょうか。

 

ブブ:そう思います。それが芸能のルーツのひとつだと思うし。だからそういうことがパフォーマンスの本番にも起き得たんですよね。というのは『S/N』のブラジル公演中に悌二は京都で亡くなったのですが、6回公演のうちの5回目が終わった時に亡くなったという知らせが入りました。その翌日に残る1回の公演をしました。彼が亡くなったと知ってからの1回の公演は、なんというか…作品として素晴らしかったんですよね。それは残酷なことでもあると思いました。同時に全く80分間の「祈り」でもあった。スタッフも出演者もお互いに極めて思いやりに満ちていたんです。でもその時私はとても皮肉な気持ちにもなりました。「普段からなんでこれができないのか」って。誰か死なないと自分はそこまで集中できないのかって。悌二の場合はある程度みんなが予測できた死だったけど、予測出来ずに死を迎えることだってあるわけです。自分も相手も。

その後何度か悌二の居ないバージョンで上演した時は、私は割とすっきりとしてあんまりセンチメンタルなでもなく、喪の儀式と言ってもいいかもしれないものだったと思います。悌二の強い意志が残響として残っている数年間だったから、いつもと変わりなく公演できたのかもしれません。その後『S/N』の公演が終わって私のようにダムタイプから抜ける人もいたし、残って次の作品を作ろうとした人もいた。それはまた新しいことですね。だから「洗骨」っていうのは全くその通りだと思います。「洗骨」。なるほどね…。これまで『S/N』がそういったアジア的な死生観で語られたことはあんまりなかったと思うし、今回の上演やトークは、そういう意味でも貴重な機会だと思います。

 

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ダムタイプ『S/N』ヴィデオ・ドキュメンタリー上映

日時:

〈上映〉11月11日(土)19:00、 12日(日)14:00

〈トーク〉11日(土)20:15 ※上映後に開催します

 ゲスト:ブブ・ド・ラ・マドレーヌ、山中透

会場:ArtTheater dB Kobe (長田区久保町6−1−1 アスタくにづか4番館4階)

その他、詳細・ご予約はこちら

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