「無邪気な庭~Garden of innocence~ 岡山編」より(撮影:伊東和則)
ダンスボックスの踊りの火シリーズ、今年度は千日前青空ダンス倶楽部とMonochrome Circusとの公演です。今回は、千日前青空ダンス倶楽部の振付家の紅玉さんにインタビューしました。千日前青空ダンス倶楽部の8年ぶりの新作劇場公演となります。本番三週間前の段階で、作品の骨格とシーン構成の90%ほどが見えているという、紅玉さん曰く奇跡的な状況とのこと。今回のインタビューでは、千日前青空ダンス倶楽部の特徴の一つと言える舞台美術についてを入り口に聞いていきました。(聞き手:横堀ふみ)
ー 今回の舞台美術はどんな感じになりそうなんですか?
- 小石原剛さんに受けていただきました。これまでに二作品ご一緒しています。
- 今回は、この作品に対する言葉やイメージ、なぜこういう作品を作ろうとしたのか、というのを文章で送ったところから始まりました。
ー その文章はどのような内容だったのでしょう?
- 一つは、ジル・クレマンというフランスの造園家について書きました。彼の『動いている庭』という本にも映画にもなっているものがあります。普段「造園する」というと、例えばここにサツキを植えて、ここはバラにしようといったような、草木をデザインしたところに植え込んでいくイメージがあると思います。それとは違って、元々そこに自生している植物を大事にして造園していく発想をされています。
- ※『動いている庭』公式サイト:http://garden-in-movement.com/
ー 自生している植物を基点に庭をつくるんですね。
- はい。その映画を見たときに思い出したことが、二つありました。
- 一つは“安倍晴明の庭”っていう、夢枕獏さんが書いている『陰陽師』を読んだときに、安倍晴明と源博雅が庭で話合うシーンがあって、その庭の描写がジル・クレマンの庭と似ているなって思いました。勝手に生えてくるものが、共に良いバランスで共生していくような庭だったなと。それはつまり、そこには妖怪が棲みやすい庭だなって。
ー もう一つの思い出されたことは何でしょうか?
- 自分が昔住んでいたお家です。自分より前に住んでいたおばあさんが造った庭があって、僕が全然知らない植物が生えてくるわけですね。それを調べていくと、雪ノ下であるとか、ドクダミであるとか、ミョウガであるとか、毎年多年草として自然に出てくる。そして大きな木では、梅や柿、みかんの木など、いろいろありました。それはおばあさんが植えられたんだろうけど、それが何年も経っているのにすーっと生えてきていた。
ー いろんな植物や樹が自然に共生している羨ましい限りの庭ですね。
- そのような混在している、共生できている庭の有り様というのが、すごく良いなと思っています。昨今では多文化共生という言葉が流通しすぎていますが、こういう庭、こういう社会があれば良いのかなということが今回の作品のスタートの一つになっていますね。
ー 三つの庭について小石原さんに送られたんですね。
- そうです。小石原さんは、私の文章に対して「神々の庭」っていうことを感じたみたいです。それは多神教の庭だそうで、私のイメージと近いなって思いました。その神という存在と、妖怪という存在。メディアが多様に発達してきた現在において、そのどちらもが追いやられるような存在だと思うんですね。同時に、そのメディアの中に絡み取られることもあるのですが。
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- 神様も妖怪も生身の人間ではない、ある種の曖昧な身体性を持っています。でも半分生身っていうところもあるようなそういう存在が、我々が生きていく中に、すぐそばにある感覚を失ってはいけないなって思っています。それは、ある程度小石原さんに伝わったので、こういう舞台美術をスケッチしてくれました。
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これは三重県の熊野にある「花の窟神社」からの着想です。その神社は、御神体が大きな岩なんですね。その岩には穴がいっぱい空いていて、そこに白い石が置かれている。そして綱がその岩に張り巡らされているようです。この網は半年に一度ごとに貼り替えされるらしいんですけど。このような事が原点になっています。もうちょっとポップにしても良いのかなと思っていますが。
ー 今回は8年ぶりの劇場公演ですね。
これまでの作品の中でやって来た事ではないような、新しいことをどうつくれるのかということも思いますね。新しいダンサーも4人参加していますし。舞踏的に動くための身体の基礎レッスンはずっと行なっていますが、そうではないワークショップ的なことを今回のはじめの段階で続けてやってみました。
ー それはどのような内容ですか?
ダンサーが“立つ”ことは、果たしてどういうことなのかを掘り下げていきました。
自分にとっての遠景や近景、聞こえてくる音、目に見えること、それから身体のまわりにある客観的な事実、心情に対してアクションを起こす身体感覚を、“立つ”時にどのように感覚できるのかということを試していきました。
ー 舞台での「立ち方」はどういう事なのかを探ったんですね。
はい。いろんな所に意識が行っていないと、ただ振りを追って踊ってしまうということになってしまう。個人が舞台に立つということに対して、お客さんが居て、空間があって、照明があって、いろんな要素の中でようやく立っている身体がある、そういう意識の仕方。自分勝手に踊らないっていうレッスンみたいな感じです。
ー そのワークショップを経て、ダンサーの立ち方が変わったように感じますか?
分からない(笑)でも、そのワークショップの中で出てきたものを、振付やシーンとしてつくったものはあります。
ー 今回6人中4人が新しいダンサーということで、紅玉さんが新鮮に感じていることや、歯がゆいところとかありますか?ダンサーとの作業について何か日々の稽古の中で感じることはありますか?
- 新しいダンサーだからどう思うということはあまりありません。前からやっているダンサーだったら、こう言えばそれは即座に伝わるということはもちろんあるんだけども、まあそれも良し悪しですね。そうでない解釈があっても全然良いので。
- 1つだけ例えて言うと「キャバレーのシーン」を今回つくっているんですね。自分の経験で、昔の舞踏をやっている人、特に女の子は、入団して3日くらい稽古したら、「はい、秋田の何とかっていうキャバレーに行ってください」って送られるわけですよね。その時、窮地に立つんですよ。舞踏っていうアートをやろうとして来ているのに、なんでこんな事をせなあかんねんっていうね。
- その時に振りもそんなに教えられていない中で、でもお客さんがそこに居る。だから必死なんですよね。
「無邪気な庭~Garden of innocence~ 岡山編」より(撮影:伊東和則)
ー それはキツいけど、随分鍛えられそうですね。
- 今回のダンサー達と、必死に踊った時に魅せ方や踊り方が開発されてくる稽古をしたんですよ。
- それは、何にも振りを付けずに、5分ほどの曲を2曲分踊ってくれってやったんです。みんな窮地に立つわけですよ、同じ曲2回繰り返して、10分のソロなわけだから。で、やってみたら、みんなが小つるに圧倒されたんです。そりゃ上手な人は居ますよ。小つるは全然上手じゃないけど、そこで窮地に立って踊らなければいけないっていうところの美しさが出て来ました。
- そのような、踊りをつくっていく時に、いろんなテキストを配置していくという中で、ダンサーが持っている魅力や表現力というものが出てくれば良いなといつも思っています。
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ー インタビューの始めのほうで、舞踏的に動くための身体の基礎レッスンはずっと行なってきたと聞きましたが、舞踏のテクニックは、ダンサーの身体の状態をどういう風にするものだと捉えられていますか?
舞踏のメソッドは、日常的な身体の使い方とは違うところに入っていきます。僕が経験してきたそのメソッドの入り口は膨大なイメージの言葉でした。現在、大駱駝艦や山海塾の舞踏公演を見ると舞踏の様式が明確にありますね。それはそれで魅力があるし、様式があるからこそ伝わるものもあると思うんですよね。僕もその系列で育ってきてはいるし。ただ、それが嫌で舞踏を辞めたんで、そうではないことがどうやったら出来るのかを、千日前青空ダンス倶楽部でやっています。
ー では、舞踏の様式からは距離をおいて、つくっているのでしょうか。
いや、舞踏の様式をお稽古としては結構やりますね。決まった体操も含めてですけど。初期の作品なんかは様式を結構使っていましたね。そういうことで表現しきれないものがあるなっていう風に思い始めた時期はあって、今は出来るだけ動かずに、なにがどう表現できるかみたいことをしています。つまり、動いてしまうと様式になってしまうので、動かない方に自分の興味はいっていますね。動いた時に様式に絡み取られないようなことは、どこで生まれてくるのかなって。
「無邪気な庭~Garden of innocence~ 岡山編」より(撮影:伊東和則)
ー 様式に回収されない動きを探るということですね。
- あと、動くという身体と動かされる身体ということが同時に起こってくるようなこともしています。
- それが出来るダンサーは本当に少ないんですよ。最近久しぶりに見たのが、伊藤キム。土方巽さんももちろん出来ますし。こう動くっていうことって、ある種の意思というものが出てくるけれども、動かされるって意思がなくフッと出てくる。それが入り混じってくるようなダンスってとても魅力的です。僕が一足一手振り付けるのではないダンスが生まれていますね。
ー では最後に今回の紅玉さんにとっての挑戦は何でしょうか?
- ずっと作品をつくる上で変わらない点は、お客さんをさらいたいなっていう思いですね。いろんな感覚でさらっていきたい。そして、「ああ、生きていて良かったな」と思えるような。それは僕自身が舞踏を初めてみたとき、そうであったからなんですよね。
- ダンスのためのダンス、舞踏のための舞踏というものは見たくなくて。一期一会ですから、千日前青空ダンス倶楽部の舞台を観にきていただいた人に、お土産を持って帰ってもらえる、それはその「生きていて良かった」って思えるような舞台をいつも作りたいと思っています。
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- そして、ある種の美学をどう作っていくのかということと、今の時代に生きることの中で、美しい、愛らしい、あるいはその反対の醜いような現実を、どういう風に体感して作品に生かしていけるのかなということは思っています。まさに「無邪気な庭」では、そういうカオスのような感覚で色んなものが混在しているような、そして、そこからどうやって青空を見て行こうかっていう作品になれば良いかなと思っております。
ー 楽しみにしています!! ありがとうございました。
紅玉(あかだま)
大阪生まれ。
1972年土方巽の舞踏に出会って以来、独自に舞踏を研究し始め、74年より北方舞踏派の設立に参加。舞踏手として山形・北海道を拠点に活動。2000年、演出・振付家として「千日前青空ダンス倶楽部」を結成。代表作「夏の器」「水の底」は国内外で多数上演。2005年、大阪市咲くやこの花賞受賞。
千日前青空ダンス倶楽部
舞踏を基とし、〈身体〉を予め用意されたイメージを表現するための媒体と考えるのではなく、〈身体〉それ自身に記憶されている風景や歴史を引き出すことにより作品を創っている。また、能の〈静謐さ〉、歌舞伎に通じる〈ユーモア〉を感覚させる作品は、個々ソロ活動も行なう踊り手の新鮮な魅力と相俟って、独自の表現として注目されてきた。2000年大阪にて結成以降、国内外の劇場、寺社や古民家など様々な空間で上演。2009年に神戸に拠点を移し、今公演は、2010年以来、8年ぶりの劇場公演となる。
<DANCE BOX 踊りの火シリーズ> 千日前青空ダンス倶楽部『無邪気な庭』