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【K-ACDF】ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー(前編) | BLOG | NPO DANCE BOX

2017.11.11

【K-ACDF】ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー(前編)

INTERVIEW

京都市立芸術大出身者を中心に結成され、今もなおメンバーが入れ替わりながら国際的な活動を続けているダムタイプ。そのメンバーのひとりとして活動されていたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんに、今回上映される 生まれるべくして生まれた『S/N』の作品を中心にお話を伺いました。

 

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-ブブさんの初舞台はいつですか?

 

ブブ:幼稚園の時です。キリスト教系の幼稚園でクリスマスの劇に出ました。キリストが生まれた馬小屋に東方の3人の博士がお祝いに来る場面で博士達の道案内をする“導きの星”という役でした。そのセリフをまだ覚えています。「私はお空の導きの星。イエス様を訪ねて3人の博士を導いてきました」っていうんです。それが初舞台でした。

 

-それってずっと覚えていられるんですね。その次はいつですか?

 

ブブ:子どもの頃は父の影響で演出家になりたいと思っていました。父は昔映画監督を志して、その後民放のテレビ局でドラマを作ったり、のちにプロデューサーもやりました。私が物心ついたときにはテレビドラマの演出をしていて、家の茶の間にそのポスターが貼ってありました。確か中村玉緒さんと森乃福郎さんによる『夫婦善哉』でした。織田作之助の原作ですね。それで世の中には演出家っていう仕事があるんだと知って、私は演出家になろうと決めました。それが10歳の時です。でも自分が舞台に立てる人だとは思っていませんでした。体にコンプレックスがあったから。太ってるとか、女の子らしくないとか。自分は世間の美の基準、美しいとか可愛いってものじゃないなと子ども心に思っていたので、だったら演出家になろうと。その方が面白いとも思いました。中学と高校は6年一貫教育の学校で、なんか立派な講堂があったんです。終戦直後のアメリカ軍のキャンプ跡地にできた学校で、軍隊の娯楽施設としての映画館がそのまま講堂になったのだと聞きました。キャンプの映画館といってもちゃんとした劇場でした。スロープのついた備え付けの客席に、本格的な高さと奥行きがある舞台、キャットウオークも舞台奥には楽屋もあって、っていうのが中学で初めて経験した劇場でした。そこで入学式や卒業式もやるし、学園祭も盛んで毎年みんなで演劇をやりました。私は喜んでシェイクスピアとかやっていました。高3の時にちょうど映画で梶芽衣子と宇崎竜童の『曽根崎心中』を観て感動して『曽根崎心中』をやろうってなって。

 

-なかなか渋い。

 

ブブ:そう、だから『曽根崎心中』が初演出。

 

-どのポイントに惹かれたんですか?

 

ブブ:あのね、主人公の徳兵衛が縁の下に隠れていて、お初が足の動きで心中の決意を徳兵衛に確かめるシーンがあるんです。徳兵衛はその素足を自分の喉に当てて「お前と心中する覚悟がある」っていうことを伝えるんですよ。それをひたすらやりたくて。道行きの浄瑠璃の「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜…」っていうフレーズも大好きで。

すごくマセてましたけど、自分の恋愛や性的なことには興味がなかった。それよりも映画や舞台の方がよほど興奮するし、そっちの方が楽しい。恋愛とかセックスとかよくわからないし、自分にはまだ早いと思っていたのが中高時代でした。で、ブロードウェイと芸大のどちらに行くべきか悩みました。その頃、黒澤明とジョン・レノンが絵本を出したんですよ、自分の描いた絵で。「才能がある人は絵が描けるんだ」って単純に思って、デッサン、つまり物を観察することの基礎を勉強するべきだと思って、京都市立芸術大学の構想設計に進路を決めました。

 

-構想設計というのはどんな学科でしょうか?

 

ブブ:当時はよくわかっていなかったです。今もあんまりわかってないけど(笑)。映像や舞台表現が出来るのは関西でそこだけだって思ったんですよね。先輩には森村泰昌さんがいらっしゃいました。私は大学では演劇部に入ろうと決めてもいました。当時の演劇部は「劇団座☆カルマ」っていうサークルで、先輩に藤浩志さんがいらっしゃいました。小山田徹と古橋悌二は同級生で同時期にカルマに入りました。カルマは毎年春と秋にオリジナル作品を学内で公演していました。カルマに入ってすぐの春の公演でやったのは『羽衣病棟』っていうタイトル(笑)。「天女の羽衣伝説」と病院もののミックスです。発声練習には唐十郎や寺山修司の脚本を使ったり。野田秀樹とかが出てくる前ですよね。映画やったらフェリーニとかヴィスコンティとかパゾリーニとか。ダンスはモーリス・ベジャールやピナ・バウシュ。ローリー・アンダーソンにも影響を受けました。利賀村では演劇祭が始まったり。

 

-じゃあもう時代が大きく…

 

ブブ:そうそう、その時代に学生生活を送りました。カルマは私たちが4回生の時に「ダムタイプ」と名前を変えました。そこへアートスペース無門館(後のアトリエ劇研)のプロデューサーの遠藤寿美子さんが観に来てはったんです。「なんか京芸に面白いことやってる子らがおる」って。すぐに「あんたらこんなとこでやってんと、うちでやり」っておっしゃって、無門館を練習や公演に使わせていただくようになりました。

 

-その『羽衣病棟』で自分たちのオリジナルを作ろうとなった時、世界的にも面白い人がたくさんいる中で、じゃあここは絶対自分たちのオリジナルだって感じてたところはどのポイントですか?

 

ブブ:世界のことはまだ意識してなかったかなあ。自分たちがとにかくやりたいことをやろうみたいな。カルマは演出とか脚本といった担当が固定していなくて、それはその後のダムタイプのやり方にも受け継がれたのだと思います。そろそろ新作作ろかーってなって、脚本のアイディアがある人、演出のアイディアがある人、舞台美術のアイディアがある人、それぞれがアイディアを持ち寄るっていう感じですね。だから1回生でもアイディアが言えて、それが良ければ実現するというか。

 

-すごいオープンですね。

 

ブブ:学年とか関係なくガチでアイディア勝負というかね。どれだけ魅力的なアイディアをプレゼンしてみんなに「お、ええな」って思わせるか。それをどうやって具体化するか、どうお客に届くかみたいな事の勝負っていうのが最初から意識されていたかなあ。

 

-形はもうすでにあったんですね。

 

ブブ:そうそうそう。例えば私が初めて演出させてもらった時のミーティングでは「(映画の)『去年マリエンバードで』を観てください」って、それだけとか(笑)。悌二は坂本龍一さんが『戦場のメリークリスマス』を出した時にそれをカセットテープに入れて持って来てみんなに聞かせたり。それを初めて聴いた時の鮮烈な印象は今も覚えています。あと、舞台上に8mmフィルムの映像をプロジェクションしてみたりとか。

そうこうしているうちに、みんながなんとなく演劇という形式では自分たちのやりたいことをやるには限界があるんじゃないか気づき始めて「なんでセリフを言わなあかんのか」とか「ストーリーを説明するのはなんか違う」とか「演じるってどういうこと」とか基本的な疑問を持ち始めたんです。太田省吾さんが『小町風伝』という作品で全くセリフがないのをやりはった時に、「あ、やっぱりセリフってなくていいんや」みたいな事とか、素直に気づいていくみたいな。そこにロバート・ウィルソンやピナ・バウシュを観たりして「あ、私がやりたいのは演劇じゃないのかも」とか。パフォーマンスという言葉も知らなかったかもしれない。当時まだ一般的な概念じゃなかったかもしれない。

 

-演劇部でありながら、演劇を疑っていたんですね。

 

ブブ:演劇だけでなく、芸大の「美術」「工芸」「デザイン」という学科の分けられ方とか、写真やビデオやテキストはまだ「芸術ではない」という当時の大学の価値観に対する疑問はありました。私個人の経験としては、大学での初舞台は『羽衣病棟』、その次は『黄金遁走曲』。スパイが上海を舞台に繰り広げるピカレスクロマンで、私はキャバレーの踊り子の役でした。初めて網タイツをはいてドキドキ、みたいな(笑)。その次が『玉姫殿菊の間への道』。私はレズビアンのタチ役でした。セクシュアリティをテーマにした壮大なストーリーでしたね、今から思えば。

 

-時代で言えば何年くらいになるんでしょうか?

 

ブブ:1981年に入学、「カルマ」が「ダムタイプ」になったのが1984年です。その頃に私はある人と生まれて初めての恋愛に落ちたのですが、その相手が「カルマ」にすごく嫉妬したので、なんと私は「カルマ」をやめてしまったんです。その人とは大学卒業してすぐ結婚しました。で、非常勤で高校の美術教師をやりながら貞淑な妻としての日々を過ごしていたのですが、その頃「ダムタイプ」はアーティストとしての活動の場をどんどん広げていきました。

私はまだアーティストとしての自覚も無いまま作品を作りたいなという夢を抱きつつも結婚しちゃったんです。性欲に負けて。性的にほとんど初体験だったし、噂に聞くセックスってこんなに楽しいものなのかと(笑)。「ちゃんとした妻」になりたいという欲望もあったし。二択だったんですね。妻になるかアーティストになるかの二択。両立している女性のお手本を知らなかった。

 

-難しいですよね。

 

ブブ:そう、だから私はとりあえず「妻」になってみようと思って。できるなら妻をやりながらアーティストになれたらいいなって思っていましたが結局それは諸般の事情で無理で(笑)、6年目に別の理由で離婚しました。それが1991年30歳の時です。一から出直すつもりでダムタイプに戻ってきてもいいですかって、小山田と悌二に6年ぶりに会いに行きました。

 

-じゃあ、その間は一切連絡してない?

 

ブブ:1回だけ『PLEASURE LIFE』の公演を京都に観に行きました。お忍びでこっそり。

 

-観に行ったら怒られるからね。

 

ブブ:そう、怒られるから。怒られるというか拗(す)ねられるから。拗ねられるっていうのはこたえますよね(笑)。でもそれ以外は全く連絡取らず。でも6年ぶりにオフィスを訪ねて行ったら歓迎してくれたのは有り難かったです。で、その頃上演中だったパフォーマンス『pH』を観に来たら?って誘われて観に行ったんです。私はカルマ時代しか知らなかったので、私が主婦とか教師とかやってる6年間に彼らがもうとてつもなく成長していて、成長って言うたら上からなかんじだけど、でもほんとに大人になっていて、びっくりしました。こんなにすごい表現をするようになったのかって心の底から尊敬というか、すごいことやなって思って。

 

-そのブブさんがすごいって思ったポイントは?

 

ブブ:すべてが全く新しい表現やった。いろんなルール、音楽とか体の動きとか、映画や演劇の、私の知る限りの既存のルールが見当たらない。一から自分たちで作ってる、見たことないものがここにあるという。そういうことを自分が学生時代に一緒にやってた人たちがやってるってことの驚きと、単純にアーティストとして尊敬すべき人たちだなという。それを一人のリーダーがいるわけじゃなくってみんなでね、ひたすらアイディアを出し合って作るという、あのやり方でこれを作ったっていうことが想像できたし、ただただ凄いなと。本当にやりたいことをやっているというのがわかった。映像はVHSで売っているので観ることが出来ます。

 

-じゃあ私、それは観れてないですね。

 

ブブ:『pH』、ぜひ見てみてください!あれは悌二が編集しています。悌二は元々天才的なドラマーで、カルマの前からかな、山中透さんとバンドを組んでいたんですよ。山中さんはカルマやダムタイプに楽曲を提供するようになって『pH』では山中さんはライブで演奏していました。ライブで舞台の音があることに私は驚いたし(それまでにもフランスの太陽劇団などで民族楽器が演奏されるというのは観ていたけど)、それはクラブのDJに近いことで、単純にカッコよかった。音が本当にカッコよかったんです。それでこの人たちと一緒にできるんやったら、もう1回私はイチから人生をやり直そうと。でも6年間も表現の世界から遠ざかっていたので、お手伝いというか、事務的な、例えば封筒の宛名書きとか事務所の掃除とかなんでもしますって感じで入ったんです。当時は高谷桜子さんがダムタイプのマネージメントをしていて、彼女のお手伝いをさせてくださいみたいな形で『pH』時代に私は出戻りました。

ある日、悌二が写真の束を私に見せました。それは悌二とシモーヌ深雪さんと山中さんがその2年前ぐらいから始めた「ダイアモンドナイト」の写真だったんですけど、ドラァグクイーンって見たこと無かったから、なにこれ?みたいな。でもとりあえず行ったんですよ。そしたら行った日に何ていうかな、私もドラァグクイーンになってたというか。

 

-ドラァグクイーンて、初めて見ていきなりなれるもんなんですか?

 

ブブ:山中さんの当時のガールフレンドに「なに着ていったらいいのかな?」って聞いたら「網タイツと手袋があればなんとかなる」って言われたので網タイツと黒い長い手袋と、あとカツラとかわからなかったから船場の衣装材料問屋で買ったオレンジ色の羽根を頭に差して「こんなかんじかな」ってやってみたら「えー、ブブ素晴らしい!」と言われました。その時に悌二が私をブブって呼んだのが命名の瞬間です。初めて人前で自分の好きな格好で踊ったりいろいろするのはこの上なく楽しい事だって知りました。その時が、私の実質的な第二の誕生ですね。大阪の「オキシゲン」というクラブでした。

すでに『S/N』プロジェクトも始まっていました。私はそのインスタレーションの制作や練習の場に居るだけだったんですけど、いつの間にか出演もすることになりました。

 

-『S/N』もインスタレーションが先にあったのですか?

 

ブブ:はい。『pH』も『S/N』もインスタレーションがまず制作されました。インスタレーションを作りながらパフォーマンスのための舞台や装置を実験していたんですね。私は最初は意味がわからなかったけど(笑)。

『pH』の公演をしながら新作の『S/N』のミーティングを始めたある日、悌二がみんなに手紙を渡したんです。「自分はHIVに感染してる。今まで黙ってたことを謝りたい。そしてこれからも一緒にやっていってくれますか」という手紙。1992年の10月でした。初演の日程も決まっているって時に。突然のことでした。

 

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(後編)はこちら

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